“GHz Interview10” YOCO ORGAN (前半)

GHz Interview

GHz Interviewの第十回目は、ヒップホップ、ベースミュージックからアイドルやロックバンドのリスナーまで魅了している金沢のオルタナティヴ・ラップグループ「YOCO ORGAN」のインタビューを公開!

前半では、0081氏とPERUTANI氏の音楽的ルーツからヒップホップとの出会い、YOCO ORGAN以前の活動や当時の金沢のシーン、そして、日本のアブストラクト・ラップの名盤中の名盤「ロクホー」の誕生秘話など、YOCO ORGANのタフでコアな部分が垣間見れる激熱い内容となっております!
昔からのファンも最近気になっているという方も是非チェックを!!

YOCO ORGAN
http://www.yocoorgan.com/

石川県金沢市在住オルタナティヴラップグループ「YOCO ORGAN ヨーコオルガン」。[0081オオヤチ]と[PERUTANI]の2MC。
日本語ラップ黎明期より活動し、2003年ミニアルバム「ロクホー」を全国リリース後、「ってか 俺らが好きな音楽にラップ乗せればよくね?」精神で、ベースミュージック、ブレイクコアなどジャンル無視した制作と活動を続ける。
自主レーベル”YOCO POINT”を始動後EP「AFTER」、 EP「MAGURO DAYS」を制作(DJ 100madoらJP、UK、USのBASSMUSICアーティストと共作)。 CycheoutsG/Utabi/D.J.G.O./HujikoProによるREMIX EP”Thank you remix vol.01″は、AmazonMP3ダンスチャートにて一位を獲得。

2013年10月1stフルアルバム「SHIBIRERU DAYS」をリリース。 HABANERO POSSE/KAN TAKAHIKOなど国内ベースミュージックシーンの重要人物から、Miii/DJ WILDPARTYなどのハイブリッド世代まで飲み込んだ同作を引っさげ、全国を巡るツアーを決行。

地元北陸金沢にて室内型オールジャンル音楽フェス「NONSTOPBUS」を有志らと主催。これまでにギターウルフ、あらかじめ決められた恋人たちへ、カリスマドットコム、ドラびでお、LEF!!!CREW!!!、KanSano、NDG、溺れたエビの検死報告書、Sugar’s Campaignらを招集。YOCO ORGANの活動や自由な音楽性を象徴するイベントとなっている。
2015年4月にはFunkotやSOCAに日本語ラップ、という気鋭な楽曲を含むEP「JAMASINAI DAYS」の配信リリースした。


 

Q.
お二人とも出身は石川県なんですよね?



0081> 金沢です。正確にいうと野々市という所です。
PERUTANIとは同じ中学だったんですよ。中学一年の時に出会いました。

Q.
野々市はどんな環境だったんですか?



0081> ヒップホップ的に期待されるゲットー地区じゃないですね。ヤンキーカルチャーも無かったし。石川県では都会のほうで小奇麗な町ですね。生活環境も全然悪くなく。

PERUTANI> 文教地区的な所になるのかな?大学があったり、教育熱心な地区のイメージですね。のんびりした所です。

Q.
レコード屋さんとかもあったりしたんですか?



PERUTANI> 2~3件ありました。インポート物が強い所とか昔ながらの中古レコード屋さんみたいなのとか。

0081> クラブミュージックに特化したお店は一件位ですね。

Q.
ヒップホップとの出会いは?



PERUTANI> 中学位の頃に洋楽を好きになって、ビルボードのトップチャートをチェックしていて。BOYS 2 MENとかJodeciとか聞くとラップ調の曲とかがあって。それで、なんとなくラップが気になりだして。仲の良い友達が早くからNASとかJeru the Damajaのヒップホップを聞いていて、その子から色々教えて貰ったのがキッカケかな。

0081> 僕はレゲエから入ったんですよ。洋楽をチェックしている中でBob Marleyを知って、メッセージとかカルチャーとかがカッコイイと思って。
僕が中2の時に石川県にジャパンスプラッシュが来たんです。当時NINJAMANのCDを聞いて好きになって、それでNINJAMANが出演するから行ったのかな?それに一人で行って。前のほうで一人で見ていていたら、周りの大人が「あんちゃん一人か?お前まだ中学生だろ?」ってカマってくれて。焼きそばとかビールとかくれました(笑) 
一人だったからそれが凄い嬉しくて。今でもその景色を鮮明に覚えています。僕のコンサートというか、音楽の原体験がジャパンスプラッシュだったんです、音楽で踊るっていう所からいきなり入っていて。

Q.
Shabba Ranks、Buju Banton、Snowとかが盛り上がってた頃ですよね?



PERUTANI> Apache IndianとかInner Circleとかね。

0081> コンピの「100%レゲエ」がリリースされたりとか。僕はその中でもルーツが好きで聞いていて。
ヒップホップにハマッたのはArrested Developmentの「Zingalamaduni」です。その辺りがN.W.A.が解散、SNOOPが現れEPMDの解散前でNASとWu-Tang Clanの1枚目が出るとか、いわゆるヒップホップ黄金期に突入するんです。

Q.
アメリカのヒップホップから入ったんですね。日本語のラップも聴いていましたか?

0081> 全然知らなかったです。知ったのはかなり後からでしたね。

PERUTANI> 何となくレコードのインストに合わせて日本語でラップみたいなのを乗せてみたり。中学生が日常の中で遊びの一環でラップしていたんですよ。

0081> CDに付いてる英語のラップの和訳を真似して日本語で歌詞を書いてました。でも内容は中学の先生の授業がどうだとか、そういう歌詞にNASとかのインストに合わせてラップしてテープに録音して遊んでいたんです。

Q.
中学生の頃にもうラップしてたんですね!韻とかの知識はどうやって学んでいったんですか?



0081> まったく解らなかったです。もうめちゃくちゃ(笑)

PERUTANI> 和訳を見るだけだったから韻もクソも無くて(笑) しかも、見ていた和訳がDR DREとかSNOOPとかだったから、やたらと銃撃つし、やたらと人殺すし(笑)
そんな感じでラップで遊んでた頃に、どうやら日本語のラップは既にあるらしいぞ、と知って。えー!あるのかよ!って衝撃で。それで、探して聴いた日本語のラップがキングギドラの「未確認飛行物体接近中」。衝撃を受けたよね。日本語でもカッコいいって。

0081> そうそう、クレイジーAのコンピに入ってたSaga Of K.G.名義の頃のね。そしたらキングギドラの「空からの力」が出て、LAMP EYEが出てきて。

Q.
ヒップホップのどういう部分に魅かれたんですか?



PERUTANI> 僕は最初は和訳。J-POPには無いメッセージがあるっていう事が衝撃的で。それまではラブソングしか知らなかったから。
ICE CUBEの歌詞を見てあんなに政治的な事を音楽で歌って良いんだって知って感動して。

0081> ICE CUBEに政治的な歌は無かったような気がするけど(笑)

PERUTANI> そうそう(笑) 俺!俺!っていう歌詞なんだけどさ(笑) ほんと衝撃だった。

0081> でも、俺らも高校の頃にそういうメッセージ性のある曲も作ったよね、「自殺のいきさつ」って曲。 その当時、自分達の同級生くらいの中学生~高校生とかが自殺するっていう事件が多発して社会問題になっていて。これは書かなきゃと思って。あれ良い曲だったよね。

Q.
韻とかフロウとかラップの仕方を教えてくれる先輩は地元に居たんですか?



0081> まったく居ませんでした。

PERUTANI> ラップは誰もやっていなかったよね。それで、自分達がラップしている噂がレコ屋さんとかを通じて広まっていって、イベントに呼ばれるようになりました。まだラップしてること自体が珍しい時でしたから。

Q.
その時はユニット名みたいなのはあったんですか?



0081> その時は4人でやっていて、OUTER PRAISEって名前で、初めて人前でライブしたのは高校2年の時。

Q.
デビューライブは覚えていますか?



0081> オールジャンルのイベントです。その当時の金沢は、ヒップホップだけのイベントはなかったので、テクノ~ロック~ハウスとかの中のヒップホップタイムにライブをしていました。

Q.
OUTER PRAISEの頃はどんなスタイルだったんですか?



PERUTANI> うーん、、コアな感じではあったのかな。淡々とラップをしていた様な気が。

0081> アングラですよ。その当時から。実際、Wu-Tang Clan的な事を日本語でやると暗い曲になるじゃないですか?解釈としては。
最初にWu-Tang Clanとかにハマったんで必然的にそういう暗くてハードコアになったのかな。
お客さんに対してコールアンドレスポンスとかやらなくて。別にそういうのを馬鹿にしている訳じゃ全然無くて、そういうパーティーノリのラップのライブを知らなかったんです。

PERUTANI> MTVとか誰も衛星放送に入ってなかったし、ヒップホップのMVとかライブの映像を見れていないんです。だから、ずっと勘違いですよ。精一杯の妄想しか無い(笑)
 こんな感じだろうな~で歌詞を書き始めて、きっとこうだろう、でライブを初めて。ずっと同じ調子ですよ。今でも(笑)

0081> テープデッキでラップを録音していた時とか、マイクで全部録音するから、タンテのボリュームを上げても音が足りないから机を叩いてダブリングしてたじゃん。後から、ヒップホップのカルチャーに元もとそういうのがあるのを聞いて、俺達カッコいい!って(笑) 体現してるじゃん、金沢でって(笑)

Q.
その当時のヒップホップの情報源は?



PERURANI> FRONTかな。あと、BMR。FINEにライムスターが出てたりとか。

0081> 僕達FRONTに結構な回数出てるんですよ。リクエスト送ったりとかコメントとか、デモテープを取り上げて貰ったりとか。情報はFRONTだけでした。
あと高校1年位の時に金沢にヒップホップのサテライト的なお店が出来て、アパレルの吉野さんって人がNYに買い付けに行ったりしていて。そっから情報も入るようになりました。丁度、さんピンCAMP前夜くらいの頃でムーブメントが起こりつつあった。

Q.
ちなみに、お二人の当時の服装は?



0081> ブカブカのダボダボですよ。ティンバーランドの(笑)

PERUTANI> 最初はひどかったけど、そのお店に通うようになって大分マシになったはず。

Q.
じゃあ、そのお店の影響も大きいですね。



PERUTANI> うん、かなり。凄く良くして貰ったし、そのお店の周年イベントでライブしたり。多分、お店のオーナーさんとしても僕らみたいなラップしている若いのは珍しくて嬉しかったと思う。だから、良くしていただきましたね。

Q.
その頃から金沢でもヒップホップが盛り上がって来てたんですね。東京からラッパーやDJがゲストに来ていたりしましたか?



0081> たくさん来ていましたよ。地方の前座役は一通り全部やりました。KREVAさんとかもBY PHAR THE DOPESTの頃に来ていて、雷家族とかNITRO周辺とか、全部やりましたよ。やってないアーティスト探すほうが大変だと思う。高校の終わりから20歳前までに。

PERUTANI> 当時の僕らのスキルは酷かったと思うけど、ラップやってる人少なかったから。それがどんどん経験になっていって。

0081> お客としてクラブに遊びに行く前に出演者になっちゃったんです。だから、クラブ遊びした事が無いんです。リハがあって本番があって、勿論シラフで。出番終わって挨拶して家に帰るっていう。部活っぽいノリ。本当最近だよね、朝帰りのクラブ遊び知ったのは(笑)

PERUTANI> 野々市という文教地区で育ったのほほんとした子達が、遊び方も知らずにいきなりクラブでライブしてたから。

Q.
その当時、共演したアーティストで印象に残った人って居ますか?



PERUTANI> RINOとTWIGY。彼等は別格中の別格だった。

0081> 僕達が高校の時に共演させて貰って。うん、本当凄かった。

Q.
10代の頃から凄まじい面子と共演して来ていたんですね。ちなみに、当時のクラブの雰囲気ってどんな感じでしたか?



0081> 今よりも、良い意味で音楽に雑だったと思います。金沢だとアパレルや美容師の人とかがチケットをたくさん捌いていた時期。音楽はともかく、いろんな人達が集まっていて、おしゃれな場所として成立していましたね。

PERUTANI> 昔よりも、今のほうが純粋に音楽が好きな人がクラブに多いと思う。

0081> 今は遊びの選択肢も情報も多いし。今日は居酒屋、明日はクラブ、明後日はカラオケに行くみたいな層のほうが圧倒的に多いでしょ。その中でクラブに毎週来るような人はほんと好きな人。90年代とかは、今みたいに曲を作る人も少ないし、リリースされる数も多くないから、アンセムが生まれやすかった。イントロの段階でヘッズはコブシを上げるみたいなね。知らない曲だったらレコ屋に走る、とか。
今は例えばYOUTUBEだと時系列がめちゃくちゃじゃん?20年前の曲も昨日作られた曲もまったく同じように現れる。ひたすらに曲が増えてフィールドが広がっていって探しきれない。

Q.
自分達で音源製作を始めたのはどんなタイミングで?



0081> デモテープを作ったのは高校2くらいですかね。当時、ラップしてた人は少しいたけど、音源まで作ったのは俺らとシュンペイ君たちのグループだけだったよね。録音して音源を作ったのはでかかった。

Q.
どういう風に製作していたんですか?



0081> 今と近いです。ラップのテーマを決めて、それに合うような曲調のトラックを選んで作っていくっていう。当時はMOB DEEPとかRas KassとかAKINYELEとかのオケで。

Q.
その当時の活動の目標にしていたことは?

PERUTANI> 目標というよりも、あの憧れの黒人たちが作ってるものと同じものを作っている!というワクワク感とかですかね。

0081> 好きな人、尊敬している人と同じ格好やグッズが欲しい、みたいなノリで、同じ音楽を作りたい!みたいな。

Q.
オリジナルトラックになるのはいつ頃からですか?



0081> デモテープをいくつか作った後、西海岸のアンダーグラウンド・ヒップホップのムーブメントが来て。あの流れを僕らも好きになって。僕らとILLTECNIX、DJのヨシミツ君とかその辺の10人位で金沢でレーベルを立ち上げたんです。10代の頃からの知り合いなんですけど、周りが辞めていく中、生き残った人達。
そこからですね。シングルをリリースしたり、流通をしたりとか。

PERUTANI> 音源をどんどん出していくっていうよりも、チームとして同じ物を愛している仲間が集まって。イベントをオーガナイズしていったり。LIVING LEGENDSやDEF JUX、DJ KRUSHさんを呼んだりとか。そういう流れでオリジナルを作っていったっていう。

0081> レーベルにはDJがいてラップグループが2組いて、グラフィックが出来る人も居て。当時の金沢では最強の仲間だったと思います。
ポスターのデザインからイベントの頭からケツまでDJをモニュメントしてゲストを決めて、全部自分達でやっていました。
DEF JUXを金沢でやった時は本当ヤバかった。500とか入ったんですよ。
DJ Quietstormも色々とサポートしてくれて。中心だったヨシミツ君の存在がでかかったですね。

Q.
今と違ってSNSが無かった時代ってどうやって自分達のイベントや活動をプロモーションしていたんですか?

0081> ひたすらフライヤーとポスター配り。それとメンバーのキョウスケくんが地元の顔?だったからいろんな人への情報の広まり方が半端なかった(笑)

Q.
YOCO ORGANとして活動が始まったのは?



PERUTANI> その時ですね。レーベルを作って音源を作ろうってなったときに、正式名を決めようって。

0081> 自分達で作った音源をお店に卸すとか、CDを流通させるとかその時に学んで。何も知らなかったから試行錯誤しながら。

PERUTANI> その時期にNUMBさんやDJ KLOCK君らと仲良くなったのが重なって。恵比寿MILKでやってたSL9ってイベントに呼んで貰って初めて東京に行ったんです。

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Q.
YOCO ORGANのデビュー作「ロクホー」にはNIPPSさんがコメントを書かれていましたよね。



PERUTANI> レーベルのILLTECNIXがNIPPSさんと仲良くて。

0081> あの頃、BUDDHA BRANDの人達が金沢によく来てくれていて。凄い良くしていただきました。

Q.
「ロクホー」の頃のスタイルって所謂既存のヒップホップのスタイルでは無かったじゃないですか?あのスタイルに行き着いたのは?



PERUTANI> その時、テクノやエレクトロニカにすっごくハマっていて。全然ヒップホップを聞いていなかった。そしたら自ずと自分達の曲もそうなっていって。ヤバいのを作りたいね、っていう単純な発想。聴いたことのないものをやりたかったから、曲のイントロが2~3分とかの作ったり。
既存のヒップホップに飽きた訳じゃなくて、テクノやエレクトロニカが面白すぎたんですよね。その時は。

0081> 特に狙ってはいなかったですね。俺は日本語のラップとは距離を置いてた時期でヒップホップ自体を聴いてなかった。でも、アブストラクトとかエレクトロニカのシーンとかを意識してトラックを選んだことも無いです。好きなものにラップ乗せて週末のパーティーの仕込みを全力でやるっていうだけで。
後から当時の音源を聴いてた東京の人達と話すと、凄い衝撃的だったと言われますね。地方からすげぇー変なのが出てきたなって。中々無いアングラ感だったって。

PERUTANI> ああいうトラックにラップを乗せづらいって事も無かったし。元々が日本語ラップから入っていないので、固定概念が無かったと思う。ヒップホップ的マナーとか解らないし。ただ、好きなことをやっていた。

0081> 僕らのキーワードはB-BOYになりきれなかったことだと思うんです。ヒップホップと同時にレゲエも聴くし、テクノもブレイクコアも聴く。いろんな音楽を同系列で聴いてそれにラップというアプローチをするだけ。

PERUTANI> メンタルとしてはラッパーなんだけど。色んなものを取り入れて、スクラップアンドビルドですよ、本来のヒップホップって。

0081> その顔でヒップホップを語るっていうね(笑)

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Q.
それでは、あのスタイルでも自分達はヒップホップだと思っていたんですか?



0081> その当時、雑誌でインタビューを受けたんですけど、、自分達はヒップホップだと思っているか?っていう質問をされてクルー内でちょっとした議論になった。日本中がそういう時期だったのを覚えている。ヒップホップの再構築の時期だった。

PERUTANI> THA BLUE HERBや降神が出てきて。あの時期は日本中がヒップホップ議論を交わしていた。THA BLUE HERBはヒップホップなのか?とか、全然ヒップホップなんだけど。

Q.
ロクホーの前後、8TH WONDER、EL TOPO、ART OF VIBESなどのグループも同時多発的に出現してきていましたが、そういったシーンとかアーティスト達にシンパシーを感じたりしましたか?



PERUTANI> 当時は知らなかったというか、聴くすべが無かったんです。交流が無かった。大阪には行っていたからGEBO君やABNORMAL BULUM、イルリメ君とかは知っていたけど。

Q.
あの時期は、アンチ東京みたいな空気間がありましたけど、YOCO ORGANも東京に対する敵視みたいなのはありましたか?



PERUTANI> 育ちがアレなのか、東京を敵とも思っていなし、金沢をレペゼンもしないし。とにかく好きな曲を作りたくて。全然敵がいなかった。そもそも、曲を作るキッカケが中学生の勘違いの延長だし。ライバルがいたわけでもないし。のほほんとしてた(笑)

0081> シーンとか全然関係なかった。音源を作って売れて、東京に出て行こうとかも無かったし。日本のアブストラクトヒップホップのムーブメント自体もチェックしていなかった。

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Q.
ロクホー、AFTERの頃は結構攻撃的なリリックでしたけど、どんなトピックでラップされていたんでしょうか?



0081> 金沢の話をすると、当時、逆転現象が起きていて。僕達は音楽的にはアングラ、でも、メジャーなヒップホップのイベントよりも、自分達のイベントのほうが集客があったんです。別にビーフがあったわけではないけど、してやった感がレーベル内ではあって。フラストレーションというか、ざまみろ感はあったわけです。でも基本、攻撃もされないし、しないよね。

PERUTANI> 別に対象が居るわけでは無かったよね。金沢は皆仲良しだし。皆優しいし、ふわっとしていてビーフとか当時から無いです。

インタビュー/文:GHz Staff
※このインタビューは2016年9月22日に収録されました