“GHz Interview12(前半)” DJ SHARPNEL / Sharpnel.net( SHARPNELSOUND )

GHz Interview

今回のGHz Interviewは、圧倒的クオリティーのもとにアニメやゲームといったオタクカルチャーとテクノ/ハードコアを合わせたスタイルでハードコア/J-COREシーンに多大な影響を与えているパイオニアであり、アンダーグラウンドなエレクトロニック・ダンスミュージック・シーンで知らない人は居ない日本を代表するハードコア・ユニット「DJ SHARPNEL / Sharpnel.net」が登場!

DJ SHARPNEL / Sharpnel.netはトラックメイカーのJEAさんとVJのLemmyさんによるオーディオ・ビジュアル・デュアルスタイル・レイヴユニットとして活動されており、JEAさんは90年代中頃から「Project GABBAngelion」や「高速音楽隊シャープネル」といった伝説的なユニットでの活動や、DJ JEA名義でのソロ作品やスピードコア/テラーをメインとした「Killingscum」、スピードコア・クリエイターのm1dyさんとのユニット「音圧愚連隊」といったプロジェクトでも数々の名盤を発表されており、国内はもとより海外のアーティスト達にも影響を与えています。

このインタビュー企画では前半と後半のパートに分かれてSHARPNELSOUNDの過去から現在までの長年に渡る活動を振り返ってお話していただきました。
日本のハードコア史を語る上で外せないレアなエピソードも多く、DJ SHARPNEL / Sharpnel.netのファンは勿論、J-COREやハードコアのリスナーにとって読み逃せない貴重なインタビュー記事!是非チェックを!

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DJ SHARPNEL / Sharpnel.net( SHARPNELSOUND )

http://www.sharpnel.com/
https://twitter.com/sharpnelsound
1998年より、ネットとフロアを主戦場にアニメやゲームなどのヲタマテリアルをハードコアにコンバートし続けて来た自称アニメティックハードコアリミックスユニット。東京・渋谷で開催されたDENPA!!!やXTREME HARDなどにレギュラー出演し、シーンの最前列をBPM200を超える暴力的なハードコアサウンドと融合した二次元オーディオビジュアルでフロアを圧縮し続けてい る。昨年は、LAでのDJツアーやオランダのハードコアレーベルMOKUM RECORDSからリリースされたThe speedfreak – Days of anger(DJ Sharpnelremix)がリリース早々BBC1の人気ラジオ番組DJ KutskiによってThe Hardest Record In The World Right Nowにチョイスされるなど活動の場を海外に広げ、2009年にLos Angelesにて公演。さらに2010年はシアトルのSAKURACON、シカゴの ANIME CENTRALへのライブアクトとして出演。コミケの聖地、有明から発信されたサウンドを世界へ届けるべく、合計10TBを超えた深夜アニ メ録画専用HDDを今日も高速でブン回し続ける!


Q.
お二人のご出身はどちらですか?

JEA.
出身は関西の方で、京都と奈良の県境にある近鉄高の原のあたりです。いわゆるニュータウン的新興住宅地だったので治安も良かった方ですね。

Lemmy.
私は千葉の銚子の方です。中学時代からライブが好きで、でもそんなに行けなかったので高校にはいってすぐバイトを始めて高校行きながら服や靴忍ばせて色んなライブに行きまくってました。

Q.
最初に音楽に興味を持ったのはいつ頃でしたか?

JEA.
父親が趣味でクラシックギターをやっていたのもあり、家では音楽がよく流れていました。
自分は4歳の時からリズム教室やエレクトーン教室に通っていて、中学の時にはピアノを習っていました。その時は余り音楽自体を意識していませんでしたが、音程やリズム感などはそのときに身についたかなと思います。

その後NHKで放送された「ふしぎの海のナディア」でアニメに目覚めて、主題歌とかサントラを買うようになりましたね。始めて買ったCDは、ナディアのオープニング主題歌だった「BLUE WATER」でした。それが中1ぐらいの頃で、自分のお金で音楽を買うようになったキッカケですね。

森川美穂/Blue Water

あとは友達の影響で聴いたXですね。Xってサウンド的にはHR/HMで、ビジュアル的にもいかつい感じなんですが、ビデオとかミュートマとかで見れたライブの時のアッパーなパーティー感がものすごくて。パーティー感の強いハードミュージックという所が魅力的でした。

伝説の88年京都スポーツバレーでのライブシーン

後に高速音楽隊シャープネルを始める時にどういった方向性でライブをやるという話になった時に、ステージでの立ち振る舞いやメンバーが5人である意味とか、Xに影響された部分は大きいですね。

Q.
ダンスミュージックとの出会いは?

JEA.
アニメからダンスミュージックの橋渡しになったのは深夜ラジオです。
ナディアにハマッてどんどん掘り下げていくうちにナディアでジャン役をやられていた日高のり子さんがやっていた「はいぱぁナイト」を聞いて深夜ラジオの面白さを知りました。今放送してるアニメの作り手側の話が聞けるのが面白いなって。
関西に住んでいたのでヤングタウン、青春ラジメニア、サイキック青年団などなど深夜はほんとにラジオ漬けでしたね。TVは表でラジオは裏みたいな。世の中の流れを裏から見ているみたいなね。中学生の時はラジオ、アニメ、Xでしたね。

その後高専時代に、深夜ラジオにハマッてオールナイトニッポンを聴くようになって、電気GROOVEのオールナイトニッポンに出会うんです。
電気のオールナイトニッポンでは卓球さんのオススメ曲を流すコーナーがあったんですけど、そこである日流れたBeltramの曲を聴いて「なんだこれは!すごいバカなのにキャッチーな音楽があるのかと衝撃を受けました。

Beltram – tales from the RZ

卓球さんが出るイベントをぴあで調べて、難波ROCKETSでやっていたChaos Westに遊びに行きました。
難波ROCKETSって凄い真っ暗で柱があってスモークがガンガン焚かれていて爆音で、こんな楽しいところがあるんだ!って超感動して(笑)。そこからはテクノ一直線でしたね。

Lemmy.
新宿にあったLIQUIDROOMもそんな感じだったよね。真っ暗でスモークがガンガンでストロボがバババってなると自分の動いている影が見えるの。テクノはそれが良いのよね(笑)
私は雑多な感じで色々なイベントに行っていて、学校が終わった後にライブハウスによく遊びに行ったりしていて。ライブが終わって終電が無かったらクラブに行ってた。COW COWとモダンチョキチョキズのライブにはよく行ってたかな。

Q.
テクノのどこに魅了されましたか?

JEA.
馬鹿なところですね!楽しくて反復性があってオモチャみたいな楽しさがある。

Q.
JEAさんは早い時期からパソコンを触っていたそうですが、何歳の時から使っていたのでしょうか?

JEA.
小学校の時から家にパソコンがあったのでゲームをやるとなったらファミコンよりもパソコンだったんです。プログラムっていう観点でいうと小学2年生くらいからやっています。マイコンBASICマガジンを読んでいたので友達と一緒にプログラミングしてゲームを作ってみたりしていました。
自分のパソコンを手に入れたのは高専に入ってからですね。それは奈良高専に合格すればパソコンを買ってもらうって条件を親に取りつけて(笑)。
高専では自分のPC(PC9821Ce)を使えるようになってパソコン通信も始めて、かなりクソヲタな領域にどっぷり漬かってましたね。回りの高専生も似たような感じで、学校の電算室で遊んで、家帰ってからもKTBBSで草の根のログ流してレス付けするみたいな生活でした。

Lemmy.
今、家で息子(小2)とやっていることが変わらないよね。iPadでYoutube再生しながら、マイクラによくわからない長文のコマンドをコピペしてウハウハしてるとことか。

Q,
楽曲製作を始められたのはいつからですか?

JEA.
高校の時に打ち込みで音楽を作っている友達が居たんですが、その人に色々と教えて貰ったのが最初です。始めはPC98のMMLで楽曲のプログラミングを始めて。テクノの影響が強かったのでFM音源でテクノっぽいのを作っていました。
丁度その頃がインターネットの流れと同じ時期で。96年には家でもインターネットに接続出来るようになって海外のサイトを見るようになりました。海外のアーカイブからMODのデータを落として音源を聴いていて、自分も作品を作ってMODアーティストとしてリリースを目指していましたね。

Q.
GABBAとの出会いは?

JEA.
これも電気のANNとあとはNAMCOのリッジレーサーですね。
本格的にGABBAを好きになったのは難波ロケッツで開催されていたGAMERS NIGHT vs ROTTERDAM NIGHTっていうイベントでした。元々はGAMERS NIGHTに興味があったんですが、実際に行ってみたら殆どGABBAのイベントで(笑)。
ROCKETSのフロア脇にファミコンやレトロゲームのアーケード筐体が並んでいてゲームをやりながらGABBAを聴くっていう。DJではBlasterheadさんやDJ ISHIIさん、Psybaさんが出ていました。それで、Blasterheadさんが「くりいむレモン」の「今夜はハードコア」の冒頭を流してからGABBAをかけていて。アニメとGABBAだ!ってなる訳です。その時に HAMMER BROSも出ていて、それもアニメとGABBAで。今みたいなサウンドのスタイルに足を踏み込んだのは、この日がキッカケになったと思います。

GAMERS NIGHT vs ROTTERDAM NIGHTの次にあったEBOLA OF COREに遊びに行った時に「君、この前も来てたよね?」ってBlasterheadさんが話しかけてくれて。君は僕と同じ目をしているみたいなことをいわれたりして(笑)
パソ通をやっていたのでBlasterheadさんのBBS「NAMACOLAND」にも出入りするようになり、NAMACOLANDのイベントでC-TYPEとかUtabiさんやKamishimoの人達と繋がっていきました。

HAMMER BROS/CAPTAIN TAKAHASHI
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Lemmy.
私は、新宿のオートマティックってクラブでピエール瀧がGABBAをかけるっていうので遊びに行ったのが始めてかな。フロアで始めてGABBAを聴いた時は全然踊れなかった。だってフロアでお客さんがみんな走ってるんだもん!(笑) お客さん達が延々と輪になって走ってましたね。
その後もピエール瀧はちょっとチャラいイベントとかでHYPER RICHとかGABBAをかけていて。それで気になって聴き始めてThe speed freakがMokumから出した曲を聴いたら凄い衝撃で。そこから一筋になった。
その時期はテクノがインテリジェンスな方向に行き始めていて、文章を書いている人とかも屁理屈ばっかりになっちゃって、これはちょっと求めてる物と違うなって感じてた時期でもあったから。

JEA.
僕の大好きな音楽がここに居たー!という感じはありました。

Q.
JEAさんがGABBAの曲作りを始めたのは?

JEA.
HAMMER BROSやOUT OF KEYのライブを見て「アニメ・ゲームのサンプリングGABBA最高デスね(火暴)」となって自分でも作りたくなったタイミングでちょうどWindows95が日本でもリリースされて自宅のPCがDOS/V機になって、17歳の頃からMODでのGABBAの製作を始めました。

曲作りはサンプルを集めてMODのエフェクタで歪ませたりとか、二つ並べたりとか。アニソンとかをカセットで鳴らしたのをサンプリングしたりとか。MODっていうのはサンプリング音源とシーケンスが一つに入っているので、他の人が作った曲ファイルを開くと全部見れるんです。それで何となくGABBAの制作方法を学んでいきました。
96年の8月からProject GABBAngelionとして活動を始めました。ホームページを作って楽曲をMODでリリースしてたのですが、当時のサイトってGUEST BOOKっていう足跡帳みたいな掲示板がありまして、そこにHYPER RICHの人達やHAMMER BROSの方達からレスポンスのコメントをいただけて嬉しかったですね。

Q.
お二人にとってGABBAの魅力とは?

JEA.
テクノと同じなんですけど馬鹿っぽさ、さらに速いのと強いっていうところがいい。
アーティストでいうとThe Speed FreakとMokumの50番台の人達ですね。キャッチーでポップなのにハードなサウンドっていうギャップがいいんです。

Lemmy.
私はBPMの速さと声ネタの早回しが好きだったかな。

SEARCH AND DESTROY/DEEP IN THE UNDERGROUND

Q.
JEAさんがGABBAの楽曲製作を始められた頃ですとハッピー系の人気が高かったと思われますが、JEAさん達はどんなジャンルのGABBAが好きだったんですか?

JEA.
そこが難しいところで全部好きっていう(笑)。大阪で主にかかっていたのはハードなのが多くて、DJ ISHIIIさんはRuffneckとかインダス(Industreal strength)の方向性で、おバカな方のGABBAはかけないって姿勢だったし。Mokumとかの50番台とかはフロアで聴けていないんです。レコード屋にも入荷は無かったし。
僕達はおバカなのも好きだったので、Project GABBAngelionではそういうのを狙ってはいました。

Lemmy.
Mid-Town系のレコードは当時レコード屋さんには全然無かったのよね。

Q.
奈良に住まれていた時にも東京のイベントやレコード屋などには遊びに行かれていたんですか?

JEA.
始めていった東京のイベントはDJ C-TYPEと一緒にコミケで行った時にNawoto Suzukiさんが新宿OTOでやっていたイベントでした。そこで元々ネットで知り合いだったDJ 急行とも始めて会ったんです。DJ C-TYPEのレーベル、殺人ヨットスクールから出た「Murder Remix Show」のジャケはその時に撮った写真なんです。

Q.
JEAさんは奈良から東京に活動拠点を移されますが、上京した当初の心境は覚えてますか?上京される前は東京に対してどんなイメージがありましたでしょうか?

JEA.
奈良に居ても東京の情報は入ってくるので知ったつもりで上京してきたのですが、実際街に行ってみるとどこに何があるのか全く分からずで。渋谷で最初に迷ったのが「シスコテクノはどこにあるのか」でした。渋谷駅からちょっと歩いて明治通りの道端で呆然と立ち尽くして「どこやねん・・システク・・」と。その時、シスコの袋をもった人に親切に教えてもらってやっとたどり着く事ができました。
同時に他人同士の距離感がすごく心地よいと思いました。過干渉でもないし、かといって放置でもない。ネットと似た距離感だなーと思いましたね。

Q.
音源を纏めてCDでリリースされたのは何がキッカケだったのでしょうか?

JEA.
MODの楽曲はネット上でリリースはしていたんですけど、MODを聴けない人達が居たのでCDに纏めたのが始まりです。97年位ですね。当時のCD-Rは1枚1500円ぐらいで、自分の家にCD-Rドライブがなかったので大阪の友達の家まで行って等速で焼くという(笑)。WEBを見た人から欲しいって連絡が来たら焼いて送っていました。

Q.
JEAさんとLemmyさんが始めて会ったのはいつですか?

JEA.
SPEEDKINGの2回目だったかな?僕は2回目には出演していなくて売り子として参加していました。

Lemmy.
多分、初めて会ったのはSPEEDKINGかな。物販でアキハバラ電脳組のイラストが入ったジャケットのCDを売っていて、「これください」って言ったら、中身が無いので次のイベントで手渡ししますっていう会話をしたのが最初。
実は私は会う前から元々知ってたのよね。クラブで出会った友達からね、GABBAngelionのおニャン子ネタの曲を聞かせて貰ってたのが始めかな。その当時、周りには無かった面白い感じのGABBAだったから嬉しかった。
それで次に合った時にライブをやるから出てって言われて始まっていったのね。

Q.
JEAさんの初ライブは?

JEA.
Project GABBAngelionとしてのライブは、97年に高専の学園祭で情報工学科の科展として開催した教室レイヴが最初ですね。DOS/Vを2台用意してMOD-DJをしたり、カウンターからBPMをパルスとして生成してフラッシュライトと連動させたり情報工学科らしいことをやってました。篠原ともえを爆音で流したところ学生会からクレームが入って中止になったんですけどね。
その後大阪で開催されたCafeBlueでのSPEEDKING第一回が最初のクラブ出演でした。
上京して高速音楽隊シャープネルになってからは、98年の8月に奈良でDJをやっている方に呼んでいただいて出演したのが最初のライブですね。2回目が9月に阿佐ヶ谷BASEでX-ROGER(その後の八卦商会)の皆さんと共演しました。

Q.
高速音楽隊シャープネルではどんなライブをされてたんでしょうか?

JEA.
当時のライブは一曲ずつプレイするっていうポップスっぽいライブスタイルでした。一曲終わったらMCしてっていう、そのスタイルは結構長くやってましたね。
Xの影響もあって賑やかな感じでやりたいっていうのと、Party Animalsのイメージもありました。一緒にやっている双子のクリエイターがGABBAとプロレスが好きだったので、その人たちはプロレスネタのGABBAをやると。それ以外の時は着ぐるみを着て貰ってステージで踊って貰ってました。急行さんには変名の綾小路準急という名前で仮面を付けてステージに立って貰って。

双子の人達はオランダのThunderdome’97とかにも行ってたので現地のノリを知ってたんです。僕等もオランダの巨大GABBAレイヴのビデオを見ていてたので、ステージ側から盛り上げる形で、日本のGABBAシーンにもそういうノリが作れないか試行錯誤していました。
アニソンをかけて、着ぐるみが居て、コスプレが居て、歌って踊りまくるっていう。オランダのレイヴカルチャーと日本のサブカルチャーを混ぜているつもりだったんです。

Lemmy.
それまでのGABBAのシーンは黙々とストイックに踊りこむ感じだったので、私たちがやりたかったのはParty Animalsみたいな楽しい感じだったから、まずクラップの復活をしようと。ブレイクになったらクラップをするっていうのを戦略的に徹底しました。それまでは皆下を向いてる感じだったし。誰もそういうのをやっていなかった。

Technohead – I Wanna Be A Hippy (official music video)

JEA.
急行さんも凄い頑張ってたよね。自分がGABBAの窓口になるって言って、キャッチーなGABBAを軸にしてプレイしたりして地道に活動していて。
それまではGABBAってポップなダンスミュージックとして受け入れられてはいなかったけど、98年以降のSPEEDKINGやHARDCORE MAJOR LEAGUE、ARCADE ATTACKの流れでGABBAって楽しめる物っていうのが伝わったのかな。

Lemmy.
そうね。急行さんの努力もあってGABBAって盛り上がる音楽なんだっておもってきてくれて。私もBLOGサイトを立ち上げてレビューを書いてみたり、海外のニュースや動画を紹介して広めようとしてた。( lemmy.jp = 現在は消失)
GABBAのイベントだと大箱だと盛り上がるけど小箱だと盛り上がらないっていうのがあった。小箱でも大箱でも楽しさは変わんないっていうのを伝えたかったですね。

Q.
高速音楽隊シャープネルでの活動が始まった頃はアンダーグラウンドなクラブミュージックが全体的に盛り上がっていた時期だったと思いますが、GABBAのシーンではどんな事が起きていたんですか?

JEA.
その時期はビッグビート、サイバートランス全盛期、パラパラが大きかったですね。TVでもクラブミュージックが取り上げられて一般層にもクラブカルチャーが流行っていた。98年から2001年はミレニアムも含めてクラブに人が一杯来てましたよね。一般的にクラブミュージックが広まっていたのと、当時はIDチェックも無かった。その時は夜遊ぶっていったらクラブを何件かはしごするっていう位でした。
98年頃からハードコアを軸としたイベントが増えてきて、僕達もそのころは毎週のようにライブに呼ばれてましたね。でも、僕等自身からするとGABBAシーンそのものが盛り上がった印象はあまりなくて。フォロワーとしてパーティーにコミットする人達よりも、クラブに遊びに行く人の絶対数が増えた感じで、シーンが形成された訳ではなかった。

Lemmy.
本当よくライブをやってたよね。ライブをやる度にステージパフォーマンスとして機能する曲を考え始めました。1stを聴けば解るように展開がテクノ的な構成で長いんだけど、3rdあたりになると曲の長さも展開も短くなってライブ向けになっていっている。

JEA.
98年以降に東京で我々がイベントを始めた時は総合ハードコアイベントっていうジェネラルな形だったんです。Happy HardcoreとGABBAとDNBを同じフロアで聞くっていうスタイル。関東ではHARDCORE MAJOR LEAGUE、SPEEDKING、HARDCORE KITCHENが大きな流れでしたね。DJカワシマ君のHARDCORE MAJOR LEAGUEが日本のハードコアのステージを一個上げたんです。僕らはアンダーグラウンド演芸としてやっていたけど部分もあったけど、彼はクラブイベントとしてハードコアをASIAまで持っていった。JUNGLEとかDNBとかをミックスさせたり、エスパー伊藤とか、NAO NAKAMURAさんを呼んだりイベントとしてのパッケージングがすごく上手かった。
同時期にM3が始まって、GUROOVYでDJ CHUCKYがGABBAを扱い始めて。98年は同人音楽も始まったという年なんです。

Q.
JEAさん達が音源を本格的に発表していくのも98年前後ですか?

JEA.
そうですね。M3が98年9月に2回目が開催されて、その後に冬コミ。我々が出したCDの順番でいうと98年に1枚目、M3で2枚目、冬コミで3枚目という順番でした。

Q.
M3の初期はどんな雰囲気でしたか?

JEA.
今とは全然違いましたね。サークル数も40サークルくらいで、際どい物が多かったです(笑)。みんな打ち込み系でしたね。CDを焼けるテクノロジーを持っている人はパソコンを持っている人なので打ち込みの人しかいない。ジャンルもバラバラでしたね。今でもM3に参加されている不気味社さん、細江さん、FoxyunさんのX-Rogerも参加されてました。
その頃ってアニソンのサントラ打ち込みが主流で、少しずつですが葉鍵(※エロゲメーカーのLeaf、Key)のアレンジをやるのが流行り始めていました。

Lemmy.
私達の曲が館内のBGMとして流れた時代だよね。これ面白いねって面白がられてた。

Q.
その頃から既にコミケではGABBAやハードコア系の音源は売られていたのでしょうか?

JEA.
殺人ヨットスクールとHYPER RICHは我々よりも前からコミケに出店して、音源を売っていましたね。コミケの音楽島にいったのは自分達で出した98年の冬コミからでした。元々コミケの参加者の間ではMADテープの文化もあって、音源のコラージュみたいな物に対する一定の理解があったと思います。MADテープはアニメの音楽やセリフをテープコラージュで作り変えて別の文脈にして楽しむ芸術ですね。

Q.
その頃(98年)にはナードコアのムーブメントが起きていましたが、今振り返ってみて当時のムーブメントをどう感じますか?

JEA.
我々のことを、ナードコアのオリジネーターだと言ってくださる方も居らっしゃるのですが、僕としてはあまり意識してなくて。オランダの人達はアニメをサンプリングしないかもしれないけど、昔自分が好きだったポップスやロックをサンプリングしてネタにしてGABBAやHAPPY HARDCOREにする。我々はそのロジックを輸入しているだけなんです。精神性を輸入して日本の環境でアウトプットしているだけなので、新しいロジックではないんです。
僕はダンスミュージックについては欧州至上主義なので。根本的に日本でどんなにがんばっても真正面からはヨーロッパのスケール感に勝てないっていうのもありまして。若いうちに実際にヨーロッパに行って、シーンのスケールを実感した時に感じた敗北感から抜けきれてないんですよね。そのあたりが、僕らのカウンターカルチャー的な立ち居地に興味を向けてくださる方の視線を、さらに西の方に向けさせるために、海外のシーンを意識したイベント作りにつながっていったと思います。

そういう意味で我々はクリエイターというよりも、同人的なファン活動なんです。アニメのファンでアイドルのファンで、GABBAのファンでHARDTEKのファン。それらを混ぜたら自分の好きな物になるから作品にしてコミケで出すっていう。その時やりたいことをやりたいようにやっていて、自分の欲に直球なだけですね。

Q.
90年代のGABBAや音楽シーンはシリアスな雰囲気もあり、アニメネタに対して否定的な意見もあるように思うのですが、実際はどうでしたか?
日本のGABBAやHardcoreがアニメネタを多用するキッカケになったのはJEAさん達の活動の影響が非常に大きいかと思いますが、現在の国内シーンを見てどう感じていますか?

JEA.
90年代当時は、そこは否定的っていうよりは元々相容れないのが前提にあって、クラブ=カッコイイ大人が遊ぶ場所というイメージの圧力はかなり強かったと思います。
その中でHAMMER BROSやOUT OF KEYはアニメやゲームからサンプリングしたGABBAをリリースしていて、僕もすごく影響を受けました。また、サイケアウツがアニメをフィーチャーしていたのも大きかったと思います。サイケアウツが居てくれたお陰でアニメネタに対するアンチが生まれづらかったっていうのがあると思います。だから我々にとってサイケアウツは神様みたいな存在ですよ(笑)

Lemmy.
サイケアウツの存在は大きいね。あとbeauty:burst主宰のVJ LUCKYさんの人柄もあったと思う。
JEAとかのインターネット第一世代から、上下関係とかの感じじゃなくてポっと好きな物を出せるようになったんじゃないかな。だから私達から上の世代と私達は溝があると思う。文化自体も違うよね。

JEA.
上下関係から外れた人達だよね。僕達はネットだったから上下関係なく好きにやれていたかな。関西、関東関係なく繋がっていけたと思う。遊びの中でクラブというものが認知されはじめて、サブカルとクラブが結びつき始め、それまでの既存のクラブカルチャーとは異なる土壌が生まれたと思いますね。

Q.
Euromastersはアンチテーゼを込めて他ジャンルへの批判的な楽曲を発表していますが、JEAさんにもそういった自身の思想やアンチを込めた楽曲を製作することはありますか?

JEA.
GABBAってカウンターカルチャーとして始まっていて当初はGABBAそのものが虐げられていた。Euromastersの出自や社会関係的にアムステルダムは商業地でロッテルダムは工業地、偏差値も違うし生活レベルも違う。アムスは楽しそうだけど俺達は苦労しているっていう社会的なカウンターもあったんじゃないかな。
自分達に関していえばアンチな要素を楽曲に込めることは殆どありませんね。楽しく、面白く、バカっぽくを最優先しています。

Q.
90年代には海外のイベントやフェスティバルにも遊びに行かれていたそうですが、思い出に残っていることはありますか?海外で見てきたものはご自身の活動に影響を与えましたか?

JEA.
1999年、2001年とオランダを中心にハードコアイベントに遊びに行ってましたね。宿も取らずに飛行機だけ乗って、現地のVVV(観光案内所)で当日空いてる安ホテルを探したりしてました。特に2001年はオランダでは「ハードコアは死んだ」と言われていて、前年には伝統だったThunderdomeも行われなかったほどシーンが沈黙してた状況でした。そういう状況を聞かされて現地に行くと巨大なアリーナに3万人くらい入って、Neophyteのライブとかで超絶盛り上がってて。お店の人と話すと「いやぁ、今年は少ないねぇ」とか言われて、こんなん絶対勝てないなと思いましたね。1か月ほどオランダ・ベルギー・イタリアのハードコアがプレイされるディスコを回ったり、イベントで中古レコードの出店をやっている方と仲良くなって自宅の倉庫に連れて行ってもらってレアレコや廃盤がどっさり集まってるのを買ってきたり、オランダの片田舎を車で飛ばしてPartyAnimalsのライブを見に行ったり、ドイツでThe Speed Freakのご自宅に泊めさせてもらったり、Rigeの事務所でPaulやRTCが使ってるスタジオを見せてもらったりと、ヨーロッパ現地の生活の中にハードコアがなじんでるところにはすごく影響を受けました。ハードコアってライフスタイルなんだなーと。

Q.
アニメネタに関してお聞きしたいのですが、どうやってサンプルするネタを選んでいるのでしょうか?ネタ探し的な要素もあって作品をチェックされていることもあるのでしょうか?思い入れの無い物でもサンプリングして楽曲は製作出来るのでしょうか?
また、サンプリングする事で後ろめたさを感じることはありますか?

JEA.
思い入れの無い物をサンプリングするのは難しいですね。たとえば美少女ゲームタイトルのリミックスをする依頼を頂いた時、未プレイ作品のことが多いのですが、できる限りシナリオをプレイしつつ、原曲を100回聴いてみたり、歌詞を見たり、キャラや背景を理解して、その作品のコアな部分を自分なりに感じ取って、ファンの方の感想と照らし合わせた上で方向性を定めたりとか。ネタ探しでアニメを見ることは無いですね。見ていて「これはトラックと合わせたいな」って感覚はあります。アニメはエモーショナルなので。監督の持っている世界観やセリフの言い回しなど、自分がグッと来た部分にフォーカスを当ててサンプリングしているんだと思います。

庵野秀明監督が大学生時代に自主制作した「帰ってきたウルトラマン」ってあるじゃないですか?ジャージにカラータイマーをつけただけの庵野さんが何故ウルトラマンに見えるかっていうと、実際の音をサンプリングしているから。絵が全く異なっても、動きと音が本物なら本物に見えるっていうロジックなんですよ。そこを引き継いでるんです。庵野監督は大阪芸術大学じゃないですか。大芸はMADテープの原産地であり、GABBAの聖地でもあるので、大芸大が生み出したサンプリングのフィロソフィーを僕らは未だに引きずっている(笑)
シン・ゴジラでも最新の音じゃなくて当時のサントラと音を使ったという話があるんですけど、方法論としてその時得た感動を再現するのにはその時の物を使うしかないんです。
ただ、サンプリングの後ろめたさはありますよね。だってそもそも悪いじゃないですか(笑)サンプリングしながら「どうか許していただけますように」と手を合わせながらRecボタンを押す毎日ですね。

インタビュー: GHz Stuff
※このインタビューは2016年10月22日に行われました。