“GHz Interview32” DieTRAX(前編)

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完全実機ユニット「アシッド田宮三四郎」でも活動しており、KetchupArtsやSOVIETSのデザイナーとしてもマニアックかつキャッチーな作品を展開するDieのソロユニット「DieTRAX」がGHz Interviewに登場!

過去には全日本レコーズからのリリースや、オランダのブレイクコア/ジャングル・アーティスト「FFF」とのスプリット・アルバム『Hiroshima vs Rotterdam』と『広島死闘篇~Hiroshima Deathmatch~』、そしてアメリカのレイブコア系レーベルfukdup recordsのコンピレーションへの参加やDEFORMERのリミックス制作も行うなど、国内外のRave/ダンスミュージック・ファン達を魅了してきたDieTRAX氏。

4月1日にリリースされる『Hiroshima vs Rotterdam Special Edition』の発売を記念して、GHz Blogにてロングインタビューを公開することになりました。このインタビュー前編では、DieTRAX氏の音楽的ルーツから90年代の福岡のシーン、TB303との出会いについてなど、たっぷりと貴重なお話をお聞きしました。
Mountain Graphics氏が新たにイラストを描き下ろした『Hiroshima vs Rotterdam Special Edition』限定セットの受付もMxCx Online Storeにて開始中です。




Q.Dieさんの出身地は?

広島の廿日市(はつかいち)というところで、宮島がある場所の向かい側の町です。
市内からJRで30分、路面電車で一時間くらいのところで、横にナタリーという有名な遊園地がある埋立地の団地でした。そこは今は閉園となって巨大なスーパーと景観を壊す高層マンションが建っていますが、当時は近所に本屋もレコード屋もコンビニもないし、駄菓子屋、酒屋があるくらい。歩いて30分くらいある山を切り開いた団地にある小中学校の側にスーパーがあるくらいの、今思うと結構な田舎でした。

Q.いまの活動につながるような音楽との出会いは?

男子校だったのですが、高校1年の頃に有頂天を友達から聴かせて貰って、そこから自分で意図的に音楽を聴き始めるようになりました。その後、電気GROOVEを知り更にのめり込み自分でも作るようになりました。

Q.電気GROOVEと有頂天というとナゴム系がお好きだったんですか?

そうですね、経緯は覚えてないんですが、レピッシュ(パヤパヤ)、真心ブラザーズ(どか~んの入ったアルバム)、有頂天 (カラフルメリィが降った街)のダビングカセット三本を友達が貸してくれて聴いてみたんだけど。そのなかで有頂天はシンセの音が入っててそれがいいなと思って、中学の時に通っていた英語塾のポイントを三年くらい貯めて貰ったパチウォークマンでずっと聴いていました。それまでは自発的に音楽を聴くことがなくて、家で家族が聴いてる音楽かアニメの主題歌くらいしか聴いてなかった。まぁ、ファミコンのドラクエ、(映画の)ランボー、ナイトライダーのサントラとかは聴いてたけど。

Q.当時はどんな所で音源を買ってたんですか?

広島市内のタワレコや、エジソンというインディーズ専門店、グルーヴィンという中古屋、デパートのなかに入ってる帝都無線というレコード屋さんに行ったりと、自分でインディーズ物を売ってる小さいお店を調べたりしていました。あとは高校の近くにあったレンタルCD屋さんにも学校帰りに行ったりしていました。

Q.本格的に音楽にハマっていったのは有頂天からなんでしょうか?

その頃、有頂天のニューアルバム(でっかち)が出たので買ったんだけど(既に)解散するくらいの時代だったので、過去の作品を遡って掘っていくしかなかったんですよね。ケラさんが書いた本(ケラの遺言という半分自伝で後半はフィクション)を見つけて、そこの過去作のディスコグラフィーとかをいろいろ調べていくという方法で。あとはレンタル屋にあった分厚い電話帳のようなCDリリース年鑑みたいなのとかを調べたり。

音楽雑誌の広告ページを見て三軒茶屋に今でもあるフジヤマに手紙だしたり、あと文通コーナーで有頂天の情報を持ってる相手を捜して東京にいる有頂天ファンの女子大生、OLさんとかと文通で情報交換したり、音源譲ってもらったり会報をコピーしてもらったりしてました。その頃は有頂天一本でしたね。

Q.有頂天のどういう部分に惚れたんですか?

バンドサウンドにシンセがあるのが一番デカかったんだよね。聴いたことも無い音の感じだったり、歌詞も面白くてビジュアル見たら格好も奇抜で、なんかすげぇ!みたいな感じだった。

Q.実際に有頂天のライブを観たことは?

当時は観れてないんだよねー。意を決してファンクラブに入ろうかと思って手紙をだしたら、音沙汰なくて、数ヶ月経って「ごめんなさい。解散します。」とのことで、、、。もうちょっと早く有頂天を知っていれば広島でもライブ観れたかもしれないんだけどねー。。でも、ライブハウスには怖くて行かなかったかもなぁ。

※その後※
有頂天解散後にケラさんが組んだロングバケーションのファンクラブにはすぐに入って、大学生の時には大阪まで18切符で行って念願の生ケラさんを見ることができました。上京してからはライブにも通えることになって、今では再結成した有頂天のデザイン面でのお手伝いをしたり、ケラソロのオケ制作のお手伝いをするまでになれました(笑

Q.では、有頂天のライブはビデオとかでしか観れていないんですね。

そうそう!一人でずっと観てたよ。友達と共有するでもないから、ずーっと一人で(笑)
あとはひたすら文通相手と情報交換(笑)

Q.なるほど、当時は日本中のファン同士が文通で情報を共有してたんですね。

PLUMっていう有頂天とかナゴム系の方々がたくさん出ている雑誌が当時出てて、有頂天の情報が一番強かったんだよね。そこの文通コーナーを使ってました。

Q.ちなみに、Dieさんが持っている有頂天関係で一番レアなものってどんなものですか?隠し撮り系とかのもある?

隠し撮りももちろんあるよ、文通で繋がってる人が有頂天のスタッフさんと仲が良かったみたいでそこからまわして貰ったライブのテープとかね(笑)。そういうブラック寄りなグレーなものもあった時代だから(笑)。

Q.そこから派生して他のバンドとかも聴き始めていったんですか?

有頂天の過去作やケラソロ、空手バカボンを知ると、ナゴムを買い始めて、、もともとコレクター気質が強かったからカタログに載ってる作品を集めだして、人生も聴き始めて。またその流れとは別に、ある日レコード屋さんに行った際、電気GROOVEの無料ライブの抽選を応募できるチラシを見つけてなんでか送ったのよね。
確か元気が出るテレビのダンス甲子園でどすこい同好会がTMNのリミックス曲を使ってて覚えてたのかな。TMNも友だちの影響で聞いてたから。

それで広島ツアーの回に当選して、ライブを観ることができて。これが生まれて初めて見たライブ。MCでこのツアーでCMJKが電気を脱退するみたいな話をしてた。
その頃、有頂天が載ってる雑誌を観てたら、もちろん電気GROOVEの記事もあって、「あー!これが電気GROOVEか!」と気になってラジオも聴き始めてそこからテクノにもハマっていったんだよね。そこでお勧めされていた、ハードコアテクノとか、XL、ガバとか聴きだした。

Q.ラジオというとオールナイトニッポンですか?

オールナイトニッポンだね!広島では2部をやってなかったから、アンテナを改造して受信してたなぁ。音楽を自分で作ろうと思ったのはホントそこで、人生とかテクノ聴いて、こんな面白いことができるんだ!とか、シンセだけでできるのかー!って思って。
テクノブームが来てた事もあり俺も作りたいと思って、最初に買ったのがローランドのR-8mkIIっていうリズムマシンでキックとかリズムだけで曲を作ったりしてたね。プリセットに303Bassがあったから、見よう見まねでいじってその気になったり。
あ!その前にも高校の頃は、妹の小さいカシオのポータトーンみたいなもので、人生に影響された録音遊びみたいなことはやってた。もちろん一人で誰に聴かせるでもないんだけど、ちゃんとカセットにアルバムタイトル付けて(笑)。

Q.ちなみにその頃に作った曲のデータってまだあるんですか?

いやぁ、もう無いんじゃないかな。。その後にD-20っていうオールインワンシンセを買う事になるんだけど、それはなんで買ったかというと、電気GROOVEの本に各メンバーの部屋が載ってたんだけど、ピエール瀧さんの部屋にそのシンセがあって、瀧さんが使ってるなら俺にも使えるかなぁと思って買ったんだよね(笑)。
最初に出た662BPMというCDの中にもそのシンセが載ってたし。リアルタイムのシーケンサーが入ってたからそれで打ち込んでいて、その頃の曲はカセットテープに録ってあってまだあるよ!
これもアルバムみたいにいろんな曲入れて、ジャケットも作ってやってたね(笑)。誰に売るでも無いけど、自己満足として、、(笑)

※OCTOPUS-8がそのカセット。世界に1本しかない(笑
後ろは後で出てくる学祭で売ったカセット

Q.広島にはRaveとかテクノのレコード屋さんはなかったんですか?

タワレコにディスコ系のレコードが入ってて、そこに何枚かXLとかあって、あとタワレコのフリーペーパーコーナーにavexが出してたビートフリークっていう冊子があって、そこにProdigyとかXLのインタビューとか載ってて、それをチェックして買ったりしてたね。

Q.ちなみにそういった音楽を好きな人は当時まわりにいなかったんですか?

高校時代は、いなかったねー(笑)。有頂天貸してくれた友達も、テクノは全然だったようで、ずっと一人で聴いてた(笑)。共有できるひともいない、テクノは文通とかっていうのでもなかったから自分で掘り下げていってたね。

Q.その頃、特に好きだったアーティストは?

それはもうNu-MaticというXLのアーティスト!クラシックをサンプリングしたハードコアテクノで、それがテクノで一番始めに買ったレコード。当時、この曲を卓球さんがオールナイトニッポンで流していて、流す前に「低音がすごすぎるからスピーカーが壊れても知りません!」と注意を促していて、「でもラジオだから大丈夫だろうし、かけるよ」ってことでこっちもビビって聴いてたら、こんなヤバい曲があるんだ!と。その曲をさっき言った広島のタワレコで見つけてすごい聴いてたね。親父の昔のレコードプレイヤーで(笑)

Q.Dieさんがライブ活動をやり始めたのはいつ頃からなんですか?

それは1993年に大学に入って、福岡だったんだけどそこで電気が好きな友達に出会う訳なんだけど、その友達が俺たちもなにか一緒にやろうってことで、リズムマシンだけじゃ無理ってことでさっき言ったD-20って機材を買ったのね。友達はTMネットワークが好きでEOS B500というオールインワンシンセを持ってたから、なんか一緒にやれたらいいねってことになって始めたのかな。

Q.その友達とはどういった形で活動をされていくのですか?

テクノ好きな人なんて周りにいなかったので、最初にお互いデモテープを交換して意見を言い合ってたりしてたんだけど、ある日、大学の構内にSYZYGYのクラブイベント『FREQUENCIES』のフライヤーが貼ってあったのね。


で、問い合わせ先は文化屋雑貨店という近所の雑貨屋だったので行ってみたら、そこの店長がSYZYGYの人と友達でライブも出てるとかっていう人で、それ以来学校帰りに入り浸ってたのよ。テクノ兄貴みたいに慕って。で、その人の知り合いが主催のライブイベントを近所でやるから、出てみない?と。すでにSYZYGYのイベントに行くようになってて、そこに出てたDRAWING FUTURE LIFEのNi-Yaさんもライブするみたいで、僕たちは曲が無いから、電気グルーヴのコピーをやりますって言って(笑)。それが「Octopus 8」っていうバンド。俺のD-20で作ってた宅録ソロユニット名だったんだけど、バンド名にしました。まぁ名前も電気の単行本から拝借っていうものだったんだけど。
その友達がノリノリで打ち込み全部と卓球さんのパートを歌って、俺は瀧さんのパートを歌うっていうライブをやった。楽器屋さんのホールみたいな小さいところで、それが最初のライブだったね。デビュー戦。ライブはそれっきりだったんだけど、その後も一緒にクラブイベントやってDJしたり。彼からは今でも年賀状がくるよ(笑

Q.どちらの大学に通われていたんですか?

九州産業大学芸術学部のデザイン学科です。「Octopus 8」とは別にそこの同級生と人生みたいなバンド、というか宅録ユニットみたいなのもやってた。
「すなポンFREAKS」っていう三人組。
その友達がギターを弾けたから、俺がYAMAHAのリズムマシーンとカシオトーンいう編成で1~2分で終わるようなオリジナルの曲を作ってた。で、歌詞はオリジナルだったんだけど、曲は今聴くとピストルズのもろパクりだったんだよね(笑)。俺はピストルズさえ知らなかったから、「いいメロディーだねー!」とか言ってたんだけど(笑)。一応ジャケ作ってカセットにして、学祭で100円で友達に売った。10本くらい。

Q.DJを始めたのはいつ頃なんですか?

95年くらいかなぁ。

Q.宅録のバンドをやりつつですか?

そのバンドはそのまま立ち消えになるんだけど、その後はシンセ買ったりサンプラーやMTR、シーケンサーとか集めて自分で曲を作ってた。で、そのあとDJ始めたのかな、レコードはいっぱい買ったりしてたし、クラブブームになってきたのもあって友達とDJやる感じになって自分も一緒にイベントに出始めたりしました。ターンテーブルも1台しか持ってなかったから、タンテのセットを持ってる洋服屋の知り合いDJや、1学年下の後輩の家で練習させて貰ったりしながら。そのうち自分達のイベントをやろうってことになって、さっきの「Octopus 8」のやつと、練習させてもらってた後輩の友達、あとテクノに染めた同じクラスの友達と4人で『IMPACT』ってイベントを博多の中洲にある知り合いのクラブで始めたのよね。SYZYGYのイベントに出てた人をゲストに呼んだり自分も曲を作ってるからソロでライブもやったり。

Q.時代的には多分R&SとかWarpとかのインテリジェンス・テクノが人気でしたよね?その辺には興味なかったんですか?

一応、買わないと!って買って聴いてはいたけど、そっちにガッツリはいかなかったね。A.Iシリーズは全部買って今でも好きだけど。テクノって言っても色んなジャンルを同時に聴いていたから、どれを聴いても新しく感じていたし情報もそんなに無かったから追える範囲も狭かったからねぇ。ガバ、ハードコア、おすすめに上がったり、TV BROsで卓球さんが紹介するテクノ、あとはジャーマントランスとかね。ハードフロアもあったし。シカゴはまだなかったかな、デトロイトもそんなに聴いていない。
そんな感じでテクノ好きって言っても、根っこがやんちゃな感じで楽しいのが好きだったから、そういう曲をデモテープに録っては福岡のSYZYGYってレーベルに持って行ったりしていたので、すげー迷惑だったと思う(笑)。今思うと、SYZYGYはもっとピュアなテクノとかやってたし、全然的外れなものを持って行ってた(笑)。
でも、そのレーベルのおかげで、福岡にいても面白いこと教えて貰えてたし、いろいろ良くしてもらったので原点だと勝手に思っています!未だに繋がってて、お世話になってるし。

※その後※2018年末、念願かなってSYZYGYのTシャツをケチャップアーツ からリリースさせてもらえました!※
https://ketchuparts.thebase.in/categories/1469813

Q.当時、ハードコア系は日本だと人気はなかったんですか?

95年くらいの福岡でイベントでかけるDJも数人だけだったと思う、、まぁそんなに、、、あ、知ってる限りではね。
それだけがかかるイベントも無かったし、まだディスコでかかるような感じだったんじゃないかな。マリアクラブっていう博多で有名だったディスコとかね。

Q.全日本レコード(以下全日)にはどういったキッカケで参加するようになったんですか?

全日のカセットテープを福岡のカメレオンレコードって、テクノを扱ってるお店で偶然買ったのね。内容の説明文に面白いことを書いてあったので。北九州から委託してて、面白いテクノをやるひとがいるんだなと思って聴いてたんだけど。その後、聡明期のインターネットで集まったテクノ仲間達が何かやろうみたいなイベントがあって、自分も参加したんです。
その時に全日のイワキ君が来ていて「あ!全日の!テープ買いましたよ!」と話しかけると「え!!!マジで???」みたいな感じで意気投合したんだよね。それで、彼がやってた北九州の全日のイベントにライブで呼ばれたりDJしに行ったり、そこで山さんがライブやってて、これはすごいなー!って思って。

Q.そのイベントはどんな感じだったんですか?

女子高生が来てたりね、そこでドリフの曲をやってたり(笑)。「ド、ド、ドリフの大爆笑~♫」って大合唱やっててすごいなー!みたいな(笑)。
で、なんか一緒にできたら面白いねって話をしていて俺がその頃、福岡のUKエジソンというインディーズのレコード屋でバイトを始めたんだけど、その時にそのレコード屋さんは結構有名なパンクのレーベルをやってて、そこの人が「お前、テクノの友達いっぱいいるならそういう友達集めてCDでも出そうや!」って言ってくれて。それでイワキくんに声をかけたんだよね。
じゃあって感じで、全日周りの人とそのレーベルを利用して全日のコンピを作ろうってことで意気投合、じゃ今後も一緒にやりましょう!ってことになったんだよね。それで全日入り(笑)。

Q.それが『TRIFORCE CD』なんですね。コンピレーションはどういった流れで作っていったんですか?

全日の名前はとりあえず隠そうってことで、仮称レーベル名をファミレスでいっぱいズラッと(候補を)書いて、その中でしっくりしたやつを選んだ。で、ウルトラテクノレコーズっていう名義ができた。略してウルテクでいいじゃん!と。ファミコン世代だから。
曲は、各音源を聴いて、この曲とこの曲がいい!みたいな感じで入れていったんじゃないかな。自分の曲がガンダムとスーパーマリオの曲、山さんが北斗の拳、西遊記、TK & トロフィーがボンバーマン、イワキ君がドリフの曲、福岡工業大学のテクノ部だったYoiya with Super Familyがスカイキッド。全日じゃなくて、当時全日と仲の良かったアシタくんがカントリーロード、一緒にハードコアのイベントやってたLALAさんだけ毛色が違ってガバのハードコアを入れてくれたりとか。

トライフォースCD※

※シティ情報ふくおかに載った記事※

※1998.8.9に行われたイベントのフライヤー※
予告からこの日にTAKAHASHI ATTACK!!!を初披露したのがわかる。

Q.この頃にナードコアという単語はあったんですか?

東京ではあったんだと思うけど、俺達は福岡だから知らなかった。

Q.なんでネタものを使おうと思ったんですか?

好きだからじゃないかな(笑)。みんなにも特に聞いたことない。

Q.ナードコアがあったということを認識しないでやってたんですか?

そうそう!好きなものとテクノを合体させようという(笑)。テクノとも思ってなかったんじゃないかな。自分の作れる打ち込みでテクノの感じを使って好きなネタをやろうって感じだったんだと思う。それが多分同時多発的にバーン!って起こったからブームになったのかも。

Q.DieTRAX名義になるのも、その頃ですか?

そうね。この時は893Recordsっていう名前でやってるけど、そんな名前もこだわってなかったし。ライブでもDIECASTとか、Security CARGOとかいろんな名義があるのがテクノっぽいみたいなって感じでやってたから。

Q.当時の福岡のクラブシーンでは何が流行っていたんですか?

ハウスじゃないかな?もちろんヒップホップとかレゲエはメインで。テクノはハッピー系が流行っていたりしてたけど、そんなに流行っていなかったと思う。

Q.その頃、Dieさんはフリーペーパーを作っていたんですか?

俺は作ってたわけじゃないけど、レビューは書かせてもらってたね。SyzygyのNi-YaさんとかLALAさんが作ってました。

Q.関東とか関西とかのフリーペーパーも読まれていました?

もちろん読んでた。情報源だよね。

Q.当時、ハードコアは情報が少なかったから、同じ嗜好の人達が情報をシェアする為にフリーペーパーを作っていた、みたいなところがあるんですか?それとも自分達の意思表示的な?

どうだろうね。東京とか大阪の人はそうかもしれない。俺が知ってるのは、福岡ではSyzygyのNi-Yaさんが、このままじゃ福岡のテクノは駄目だと一念発起して作ってた。それで周りのDJ達にインタビューしたりとか、レビューを書いたりとかしてた。それを周辺のレコード屋さんで配っていた感じ。

Q.フリーペーパー文化ってありましたよね。

あったあった!それは面白かったよね。GU-GU GENKOっていうカムリさん(buy or die)のフリーペーパーとか。

Q.福岡では関東とかのフリーペーパーはどうやってゲットしてたんですか?

GU-GU GENKOは通販した時とか、お店に行った時とかにもらったり、LALAさんがLOW KICKっていうフリーペーパー作ったりとか、あとは広島のステップナーさんという人がN.I.T.というフリーペーパー作ってたり、ハードコア系のものは結構集めてたりしてた。

Q.Dieさんが参加していたフリーペーパーを拝見したんですが、当時のDieさんの文章が凄い勝ち気ですよね。

ギャハハハハハハハ(爆笑)

Q.なんか煽られるものがあったんですか?アンダーグラウンド精神みたいな?

いや、そこまで考えてないんじゃないかな。所謂若気の至りというか(笑)。

Q.東京とか大阪のハードコアの人達にはアンチ感みたいなのはありましたよね。

あー!うんうん、ハードコアは下に見られているみたいなねー。

Q.Dieさんもちょっと勝ち気だったんですね。

これ見ると、勝ち気だったねー(笑)

Q.その気持ちというかテンションはどこから来てたと思います?

なんだろね、世の中に憤っていたんじゃないかね(笑)。なんで俺達の音楽は認められないんだ!みたいなのはあったのかもしれないよ。がんばってるのに客足が伸びないとかね。

Q.それがDieTRAXの音楽になったりとかケチャップアーツのデザインになった時に、所謂パロディーをやるとかっていうのはデカい企業とかメジャーに対するアンチっていう訳ではない?

そうではないね。DieTARXやケチャップアーツはそれが心底好きだからやってるっていう感じだね。作る物はホント心から好きだから、愛情が出過ぎてそう表現しているんですよっていうことなのかな。俺の場合は。

Q.ブラックコメディー的な要素は無いってことなんですよね?

そう。馬鹿にするとか、面白がるとかそういう感じのは今でも嫌だね。だから宗男ハウスとかすげー嫌いだったんだよね。

Q.その頃、ハードコアとかサンプリングミュージックで影響を受けたアーティストは?

そんなに影響を受けてない、いつも孤独に自分で突き詰めていっているから(笑)。
誰がこうやっていたから、とかそこまでは無いと思う。でも、しいていうなら、ハンマーブロスは「こういうのいいんだ!」っつって方法論とか、影響を受けたとは思うよ、馬鹿にしてないし。何しろかっこいい。

Q.Kill The Restとかも始まって、日本のハードコアのリリースも増えてた頃ですけど、ハードコアが盛り上がってる感じはありました?

福岡は(自分の周りに限っては)全然感じなかったよ。Quick Japanを見て、東京とか大阪では盛り上がっているんだろうなーとは思っていたね。福岡は全然(笑)。そのまんま盛り上がりも盛り下がりもせず。。淡々と好きなもの同士。
98年の冬に初めて東京に全日で呼ばれてロフトプラスワンにライブしに行ったんだけど、そのときの盛り上がりを見て、すごいな!と思ったよね。東京のナードコアシーンってのがあってレオパルドンとシャープネルがでてたのかな。うぉーこれが東京か!すごいねすごいね!みたいな。

Q.その辺りからDieさんの活動も変化していくんですか?

東京に何度かライブやDJで呼ばれるうちに、機会があれば東京に行きたいなーみたいな気持ちが芽生えたのはあるね。

Q.『8bit strikes back』のジャケってスターウォーズじゃないですか、あれには何かコンセプトがあったんですか?

※8bit strikes back発売前のフライヤー。※
1999年12月3日発売

※8bit strikes back発売後のポスター※

あれは、なにかなぁ、、そんな無いと思うけどね。思いつき(笑)。白黒だとインク代が安いから4色じゃなくて白黒でやろうと思って、それで白黒でやるとなると宇宙がいいかなぁと。そこからスターウォーズがいいなぁと思って、それで作っていったんだと思う。うちにはボロボロのケイブンシャのスターウォーズ大百科があるくらい、子供の頃から好きだったからかも。
コンセプトは海外アーティストの日本盤で、パッケージングされてるCDの見える部分は帯以外日本語は無いはず。よくある感じの帯に日本語の説明や、中に国内での曲名の日本語タイトルや、内沢さんのライナーノーツが入っているという仕組み。誰にも説明したことなかったけど(笑)

Q.「TAKAHASHI ATTACK!!」はどうやって誕生したんですか?

トライフォースCD発売イベントをやるってことで、みんなが福岡にくるからそこで全日のイワキ君を喜ばせる曲をつくりたいと思って、近所のレンタルビデオ店に行ったら高橋名人の対決のビデオがあってコレだ!と思ってそこからサンプリングして作った。それだけ。

Q.この頃の『8bit strikes back』とか「TAKAHASHI ATTACK!!」の頃の制作機材は?

リズムマシンがR-8mkIIにAKAIのS950というサンプラーとKawaiのQ80っていうシーケンサー、その3つで作ったんじゃないかな。もちろんサンプル元も持っているもので、探してきたレコードや録画してたビデオ。TAKAHASHI ATTACK!!のスターソルジャーも曲だけを録るために弾を打たずに敵を避けまくってBGMだけを録音したりしてた。

Q.Dieさんは今はPCで曲を作っているじゃないですか。ハードとPCのメリット/デメリットはどういうものがありますか?

当時(ハードで)録ったのは何か音のバランスがいいんだよね。今(PCで)録ると、なんだろうね、音がぶつかってるのかよくわからないけど、まぁ大変だなみたいな、、のはあるかな。でも楽は楽だよね今は、セーブもすぐできるし。
あとアナログシンセを使っていると、そのパラメータのセッティングを覚えていないといけないから紙に書いたりとか、単体シーケンサーだと曲の構成を紙に書いて「ここがブレイク、ここからリズムが入ってくるとか、41から~」とか、それが大変だった気がするなぁ。

Q.『8bit strikes back』の話に戻るのですが、ローリング内沢さんが帯コメントを書かれているじゃないですか?あれはどういった経緯なんですか?

ファミ通WAVEっていう雑誌がすごかったんですよ!テクノ好きだと公言してた内沢さんがいて、デザイナーでNENDO GRAPHIXXXの草野さんがいて、キッチンってテクノイベントやってたケンサクエンジンがいたゲーム雑誌って(笑)イワキ君が東京に遊びに行った時に紹介されたかなんかで内沢さんと知り合って、キッチンに全日が呼ばれた!とかで、その後ロッキーっていうキッチンの全日スペシャルみたいなイベントに出るんだけど。
まだ福岡に住んでたから、今度作品ができたから送ろうってなって、それで8bit strikes back作る時に帯を書いてください、と内沢さんにFAXしたんだよね。全然書きますよ~!ってFAXが届いてそこからやりとりして、みたいな流れ。

Q.それで上京が決まっていく感じなんですか?

それはもうきっかけというか。結局8bit strikes backも福岡でマスターまで完成はさせたけど、プレスを出したのはその半年後くらいに東京に出てきてからだからね。
やりとりしてるうちに、内沢さんのやってるファミ通WAVEに求人広告が出てたのよ。やりたい人は今すぐ連絡、とあったので内沢さんに連絡して相談したら、「まぁ大変かもしれないけど、どうなのかねぇ。。」と言われて(笑)まぁ、でもやりたいんですよねーと言ってて、でも内沢さんも「何かあったら連絡します」みたいになってて、それで何ヶ月か経っていたんだけど全然話もないから(東京に)行くしか無い!ってなって東京に出てきたんだよね。

それで内沢さんのところに、東京来たので、改めて話聞いてくださいじゃないけれどもね、一応挨拶に行ったら、向こうは「ホントにきたんだ!」みたいな感じで(笑)。そりゃそうだよね(笑)。
で、その時点でファミ通WAVEは休刊になることが決まっていたかなんかで、「じゃあ他の部署に何かあれば紹介するよ」みたいな感じで今の部署の人に拾って貰ったんだけど、それで念願のファミ通に入ったら内沢さんも草野さんもケンサクも、みんな辞めちゃうみたいで、、、あれ??みたいな、、、(笑)。

Q.結構上京の決断はデカかったんじゃないですか?

まぁねー

Q.駄目だった場合もあるじゃないですか(笑)。

あるあるある(笑)。なんで決心して行ったのかはわからない(笑)。
一緒にDJイベント(IMPACT)やってた友達が先に上京してたっていうのもデカイかもなぁ。あと当時の彼女も上京してて遠距離になってたってこともあり(笑)まぁそれで東京に来てブラブラしている間に名刺がわりじゃないけどCD(8bit)も作ったり、SHOP33やGUHROOVYにも卸していろいろ売ったりできるようになってきてたから。あとはこれまた憧れのNENDOのANIさんとも仲良くなれたし、自分もそういうところに置いて売りたいと思ってたから、いつかは東京にきてやりたい!っていうのはあったのかも。

Q.その時期にホンダレディのマルさんに出会うんですか?

そうそう、キッチンでは元々ホンダレディがライブやったりしてて。ロッキーの時はなんか北九州から来たやつ、みたいな感じだったみたいだけど。その後、キッチンにDJ Dieとしてレギュラーっぽく入れて貰えて、レジデントでやってたホンダレディのNOW!くんと仲良くなった。音楽の趣味がばっちり合ったし。ホンダレディはその頃は状況があまり良くなかったみたいで、俺を入れてカンフル剤じゃないけどもう一発なんか楽しくやろう、みたいだったらしくて。
あとTB303も持ってたから、こいつを入れたら機材も使えるぞ!みたいなこともあったのかも(笑)。早速当時行われてた1stアルバム『プリンス』のレコーディングに呼ばれて303で参加したしね(笑)

Q.ホンダレディの活動ではDieさんの中で切り替えみたいなのはあるんですか?

そうだねー、好きな事ばっかりやってたのがDieTRAXだったから、ホンダレディはホンダレディで音楽的な感じになっちゃうじゃないやっぱり。だからどうしたもんだかな、みたいな感じでやってたよね。得意なデザイン方面で威力を発揮したい、みたいなのはあったのかもしれない。

Q.では、DieTRAXの話に戻るのですが、FFFとのスプリット(Hiroshima vs Rotterdam)の話が来たときはどう思いました?

すげー嬉しかったよ!8bit~を知ってくれてて、出したいって言ってくれたのは嬉しいし。
今までは自分で出してたから、広がるのもやっぱり自分の周りで作品を置けるのも自分の手の届く範囲というか。
オランダの、しかもロッテルダムに住んでる人と出せるみたいなのはもう超嬉しかったよねー!で、好きな人のリミックス頼みましょうよってことで、サイケアウツとシマムラ君に頼めて嬉しかったよ。

※その後※
2017年秋にロッテルダムへ旅行に行くことになり、FFFと会う約束をして彼の家へ。一般的なアパートの一室はとても綺麗レコードもたくさん。奥さんと息子さんも可愛くて本当にナイスガイだった。一緒に近所の弁当屋へ行きいつも食べているものをご馳走になったり、5時間くらいレコードを聴いては身振り手振りだったけど話せて本当に素晴らしい時間だった。

Q.DieTRAX vs FFFの2作目『広島死闘編~Hiroshima Deathmatch~』で○ック○マンを使ったじゃないですか?コンセプトとかあったんでしょうか?

その頃から俺がシールにハマって、DJ DieとかDieTRAXとか自キャラでドッキリマンシールっていう引き物クジを作ってて、その時にお話を貰ったから、じゃあこれはジャケでやりたい熱がね(笑)、好きで全部やってるからね。というのでお願いしたら(梅さんは)「いいですよ!」みたいに言ったんだよね(笑)。ヨーロッパでもクールジャパンがキテるからいいじゃないですか?みたいなこと言ってて(笑)。

※その後※
これが後にちょっとした事件になるんだけど、それは時がきたら話します(笑)

Q.E-De-Cologne(Patric Catani)とweyheyhey !!とか寺田創一さんがリミックスで参加してくれて豪華でしたよね。ちなみに寺田さんとはいつ頃出会ったのですか?

出会ったのはファミリーアセンションというコンピがあったんだけど、それはNENDOのANIがやってるレーベルからの作品で。ファミコンのナードコア的なのを出したい、みたいな。2002年くらいじゃないかな。あ~寺田さんだぁ!って。福岡時代に走れコータローやピンクレディをリミックスしたレコードも買ってたから興奮したよね。
その後、ホンダレディのWorld Recordってアルバムを出すときに、寺田さんプロデュースでやってもらえることになって。寺田さんのスタジオで一ヶ月くらいレコーディングしたんだけど、素晴らしい時間でした。

Q.寺田さんのFAR EAST RECORDINGでの活動は知っていました?

SUMO JUNGLEとか買ってたけど、寺田さんだって知ったのは後の話。

Q.そこからさらに時を経て、寺田さんは「アシッド田宮三四郎」にも入るじゃないですか。あの経緯は?

高円寺でやってるJOY RIDEってイベントの出演順で、いつもOMODAKA(寺田さん)か、ウチらが最後かみたいな感じで仲良くやらせてもらってたから、寺田さんに一曲一緒にやりましょうよってことでカオシレーターで参加してもらおう、みたいな。でもあれはお遊びというか(笑)。

Q.寺田さんの入った音源も出しましたよね。

そうね(笑)。ファイルを寺田さんに送って「これにカオシレーター足してください!」って言って(笑)。

Q.アシッド田宮三四郎って全部アナログ機材じゃないですか。この時代にそれをやろうと思ったのは何故ですか?

始めた頃の2013年くらいの時期は、テクノライブってだいたいPCでコントローラーを使って黙々とライブをやる人が多くてつまらないなぁと思っていたんだよね。それで、たまたま実機もあるし、その頃に仲良くなった、アシッド田宮三四郎の相方Jaermulk manhattanも昔からの機材オタクだったから。彼はめちゃめちゃ機材持ってて、TB二台とか606とか707とかアンログシンセとかいっぱいあってしかも被ってるの多い!気があう!となり、じゃ、これを寄せ集めてみんなの度肝を抜いてやろう!って思ったのがきっかけ。
そしたら最近は良い機材がたくさん出てきて、またみんな最近実機でやりだしたから(笑)。
また考えないとなーみたいになってきてる(笑)。

Q.Dieさんが最初に買った303は?

303の音を追い求める遍歴(笑)は、最初は303のプリセットが入ってたR8-mkIIで、次はD20にレゾナンスとかがあるからそれでうねうねやってて、次はアナログシンセのSH-3Aでアシッドみたいなことやってた。
その次は303のクローンのMAB303というハーフラックの音源を買ったんだけど、それは本物とは程遠い感じで、Ni-Yaさんに売りました。そうこうしてたら楽器屋さんでたまたま303を売りにきてる人がいて、その人に「ちょっとそれ僕、欲しいです!」って言ったら、横にいたもう一人が「いや、僕も欲しいんですけど!」みたいに来たわけよ(笑)。平日の昼間、天神の楽器屋で。

そりゃそうなるよね、当時でもウン万円の機材だからね(笑)。もうすでにお店に渡していたから、じゃそのままチェックなしのこの状態でいいならちょっと色付けて売りますよみたいなことを店員さんに言われ、それで3万円だったの!それはもう二人とも欲しい!ってなって、あみだくじになったんだよね(笑)。そこでゲットできたという。それ以来ずっと修理しつつ持ってます。

※1996年当時の部屋。機材が見えるのはS900,Q-80,TR-707,TB-303,MC-202,タスカムのMTR※

Interview 2016 may / 再構成 2021 Feb
インタビュー/編集:梅ヶ谷雄太(Murder Channel)
録音/文字お越し:tamura

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