Breakcore Interview Vol.2 – UNURAMENURA

Breakcore特集

ブレイクコア・ガイドブック』発売記念企画としてスタートしたブレイクコア・アーティストへのインタビュー企画の第二弾!
MURDER CHANNELからのアルバムやEP、DJ TECHNORCHとのコラボレーションのリリースやRotator率いるブレイクコア・レーベル「Peace Off」のコンピレーションに参加するなど、日本のブレイクコア・シーンにおいて欠かせない最重要アーティスト「UNURAMENURA」のインタビューを公開!

国内や海外のマニアックなブレイクコア・ファン達からも支持を受けており、日本で最初のブレイクコア・アーティストとも言われていますが、活動歴に関しては謎が多くミステリアスな存在であるUNURAMENURA氏の音楽観やルーツなどが語られた貴重な内容となっています。UNURAMENURA氏の作品を知っている方もそうでない方もこの機会に是非チェックしてみてください!

UNURAMENURA
1999年にMODというプログラミングソフトとの出会いをきっかけとしてサンプリングを軸とした音楽制作を開始。ノイズとDIST-BREAKSをMODプログラミングしたトラックで都内ハードコア・テクノパーティーでライブ活動を勢力的にこなし、2002年に都内にてイベント「TEMPER」を開催。フランスからROTATOR(Peace Off)などのアーティストを日本に招く。
これまでにフランスPeace Off、中国Shanshuiなど海外のレーベル・コンピレーションに楽曲提供。2009年には初となるアルバム『Underground Works 1999-2005』をMurder Channelからリリース。2011年にはEP『Razor Fist』をリリースし、BACK DROP BOMBの『Coming re:Action』に参加。その後もBACK DROP BOMBのアルバムへの参加やライブのサポートも行い、2012年にはDJ Technorchとのコラボレーション作『Mind Of Mind』をリリースした。




Q.
出身はどちらですか?

生まれはアメリカでカリフォルニア州のオレンジカウンティに小学校三年生位まで居て、その後は神奈川県の横浜市に住んでました。

Q.
オレンジカウンティというと音楽的にはミクスチャーロックも有名ですが、そういった音楽には子供の頃から触れられていたのでしょうか?

その当時は全然解らなかったけど、友達の兄ちゃんとかアメリカンスクールの子達はハードロックとかを聴いてましたね。マイケル・ジャクソンが人気だったから、学校の昼休みにマイケル・ジャクソンのダンスを真似をしたりとか(笑)。

Q.
アメリカから日本に戻って来た時にズレみたいのは感じられましたか?

かなりズレてました。やっぱり、文化の違いには戸惑いましたね。
まだ小学生だったのもありますけど、アメリカから来ましたっていったら外人ってあだ名になって、仲間外れにされたり無視されたりとかのイジメがあって。
今は違うかもしれないけど、日本の場合だと道具箱とか体操着とか学校で使う物は皆一緒の物を使うけど、俺は全部違う物を持って行っていて。アメリカでは自分で使いたい物を買って使えていたので、そういった感覚で行ってたんです。だから、イジメのターゲットになりますよね。

Q.
アメリカの学校ではイジメなどはあったのでしょうか?

アメリカでも少しはイジメっぽいのがあったのかもしれないけど、そういう風には感じていなかったです。学校では俺以外全員白人かヒスパニックだったので、アジア人が俺しか居なかったけど、あんまり気にならなかった。普通に楽しくやってたました。アメリカでは玩具を学校に持って行っても良かったからお昼休みに皆で遊んだりして。

Q.
日本とアメリカで一番違うと思われた部分とは?

基本的に日本は村社会なんじゃないですかね。ちょっと変な奴がいるとイジメたりとか無視したりとか、画一的なんですよね。小さい頃から人と同じじゃなきゃダメなんじゃないかみたいな、洗脳的というか思い込みがある様な気がします。
中学生になってからは逆にヘイトを糧にして生きていて(笑)。俺は不良ともオタクとも仲がよかったので、不良の子達とバンドやったり、オタクの子でテクノとかシンセに詳しい子が居たから教えて貰ったりとか。一番苦手だったのがクラスの人気者というか、普通で明るくて。まあ、やっかみだったのかもしれないけど(笑)。

Q.
音楽に本格的にのめり込んでいったキッカケなどはありますか?

中学二年の時にエレキギターをお年玉で買って。そこからずっとギターを弾いてたのがキッカケにだったのかも。ギターを弾いているうちに、自分は楽曲というよりも音そのものが好きだという事に気づいて。特にディストーションの掛かった音が。そこから色々なエフェクターを買い集めて、MTRにギターやラジオの周波数を多重録音する遊びをしてました。その頃は、ノイズミュージックとかは全然知らなかったんですけど、一番最初に作ったのはそういったノイズのコラージュでしたね。その後にアコギで作曲もやり始めて。所謂コピーとかはした事が無くて、最初から自分で作曲してました。中学生の頃から破壊衝動が強かったんですが、不良になったり暴走族になるとかは違うから、その衝動を音楽として形にしたかったんだと思います。

Q.
その頃に影響を受けたバンドやアーティストは?

当時はメタルが好きで、その中でもPanteraは別格でした。ダイムバッグ・ダレルのギターが本当に凄くて。”Mouth for War”のギターリフを始めて聴いた時には衝撃が走りました。当時あのタイプのギターリフは聴いた事が無くて。あと、ヴィニー・ポールのドラムのキックの踏み方にめちゃくちゃ影響を受けていて、Unuramenuraやにもその影響が反映されていると思います。
その当時は、日本のインディペンデント・シーンが熱かったので、ハードコア・パンクも聴きだしていって、殺害塩化ビニールにハマりました。殺害塩化ビニールが好きなのは、所属しているバンドが良いのもありますけど、社長(クレイジーSKB)がDOLLのインタビューで、音楽やレーベルなんて誰でも出来る、自分でカセットに声を吹き込んでラベルに曲名とレーベル名を書けば、それでレーベルなんです、って言っていて。そういったDIY精神に魅了されました。
インターネットが復旧する前は、メインストリームとそうじゃない物の線引きが濃かった。だから、メインストリームへのカウンターとしてそういったインディペンデントな物に余計に魅かれたのかもしれないです。


Q.
電子音楽に興味を持ったキッカケは何でしたか?

友達から電気GROOVEとか当時流行っていたトランスとかテクノを聴かせて貰っていたんですけど、本格的に興味を持ったのはハードコア・テクノからですね。やっぱり、ガバキックは気になっちゃいますよね、メタル好きとして(笑)。最初はHammer BrosとかOut Of Keyから入って、Bass2 Recordsのコンピレーション『Hate Spirit』で完全にやられましたね。収録曲もアートワークも全部かっこいい。インダストリアル感もあって最高だなって。

Q.
打ち込みで音楽制作を開始されたのは、その頃からですか?

そうですね。インターネットが今みたいに普及する前、電話回線でパソコン通信みたいな事をやっていた時にMODの存在を知って、それで自分でも作り始めました。確か98年位かな。そこから只管ずっとMODで曲を作っていきました。

Q.
MODとはどういったソフトだったのでしょうか?

ソフトというよりはエミュレーターですね。Windowsで動くMODのプログラムソフトを使ってました。サンプリングで音楽を作るという事が手軽に出来る事を知ったから、これは無限大だと思ってましたね(笑)。誰かが作ったMODのプロジェクトファイルを落とせば、その人が曲で使っているブレイクビーツとかサンプルとかも落とせるんですよ。今でいうオープンソースですよね。とても面白くて刺激的な文化でした。
当時、Digital Hardcore Recordingsのファンサイトみたいなのがあって、そこのBBSに自分が作った曲を公開して聴いて貰ったりしていました。そこで繋がったのがSkyfish君とかBuy Or Dieの人達だったり。そこのファンサイトの管理人がオススメの曲を入れたMDを送ってくれて、その中にDJ ScudとかSociety Suckersとかも入っていて。それでブレイクコアを知ったんじゃないかな。

Q.
UNURAMENURAとしての活動を始めたのはいつ頃ですか?名前の由来って何?
当時からブレイクコアを作っていたのでしょうか?

1998年からです。名前の由来は、梅津和夫が好きで、『神の左手悪魔の右手』っていう漫画の中に出てくるヌーメラ・ウーメラから。ライブでは、デスクトップのPCに色々なエフェクトを足してノイズパフォーマンスみたいなのもやってたました。この頃はブレイクコアを作っている意識はまったく無かったです。

Q.
Buy or Dieはどういったお店でしたか?ハードコア・テクノを専門的に販売されていたのでしょうか?

お店というか店長さんの家の中でやっている感じでしたね。皆そこに溜まっていて、レコードを聴いたりとか、自分で作った曲を聴いて貰ったりとかしてました。
Buy Or Dieは所謂ストレートなハードコア・テクノよりも、エクスペリメンタルっぽいのとか、ちょっと変わったハードコアを推してました。Somatic Responses、Noize Creator、Taciturneとかのインダストリアルっぽいのや、Venetian Snaresとかも。

Q.
当時のブレイクコアの定義とは?

当時から特に定義とかは無かったけど、俺の解釈ではブレイクビーツのハードコアという解釈が大きくて、ブレイクビーツを極端に歪ませたものっていうか、全てがディストーションとセットになってる。アーメン・ブレイクをカットアップしただけじゃなくて、スロウなテンポとか、いろんなスタイルがあった。ガバキックも使ってたけど、それはあくまで一つの要素。ガバキックはまだハードコアの物って感じがあったので、それをミックスするっていうのが新しく感じてました。

Q.
90年代のブレイクコアには政治性やアティトュードが強く反映されていましたが、それらの要素をどう思われていましたか?

個人的には絶対的に必要とは思わないです。バックグラウンドはなんでもよくて、音楽として楽しむべきだと思います。ずっと同じ事や思想を貫く美学もあるし、どんどん違う事をやって変化し続けるのも良い。

Q.
UNURAMENURAさんはPeace Offのコンピレーションに2作参加されていますが、どういったキッカケでPeace Offの存在を知って繋がっていったのですか?

確か、C8にUPされていたKids Returnの曲を聴いたのが最初の出会いだったのかも。ハードなんだけどキャッチーで、バンドっぽい雰囲気もあって。そこから、Peace Offの曲を聴きだしていって、パンクが好きな奴が作ってる音楽だなって感じて親近感がありましたね。
その後、日本と中国と台湾の人達で作ったデジタル・ハードコア系のコンピレーションに自分も参加したんですけど、そのコンピレーションをFrank(Rotator)が聴いたらしくて。それで、Frankが俺を探し出して来て交流が始まりました。Peace Offでコンピレーションを作るから曲を送ってくれって言われて、何曲か送って。
その時に、Kamikaze Clubのコンピレーションも作っていて、FrankからKamikazeの漢字のデータをくれって言われて、だから、あの謎のレコード・ジャケットに使われている漢字のデータは俺が送ったやつなんですよ(笑)。


Q.
2002年にはRotatorを日本に招待されていますが、来日に至るまでの経緯を教えてください。Rotatorとはどういった人物でしたか?

自分達でも何かイベントをやろうってなって、海外からも誰か呼びたいねってなったので、Frankだったら繋がりもあるし、それで呼ぶ事にして。
Frankの行動力がマジで半端なくて衝撃的でしたね。フランスから日本に到着して、すぐにレコードバックを持って渋谷のレコードショップにアポ無しで突撃して(笑)。Ciscoに入って定員に持って来たPeace Offのレコードを売り込みだしたんですよ(笑)。今、店長が居ないから買い取り出来ないって言われても、取り合えずレコードを流せっていって、爆音でPeace Offのレコードを鳴らして。
それで、Ciscoを出たら、後からお客さんが何人か追っかけて来て。さっき流してた曲って何?って。そのレコードを売ってくれないかって言われて、その場で売るっていう(笑)。凄く良い話ですよね。ブレイクコアを知らない人が純粋に反応してくれて、買ってくれるっていう。
Frankはまっすぐでストレートな人でした。真正面からぶつかっていくというか、ハードコアですね。DIYを体現している。本物のパンクスです。

Q.
UNURAMENURAさんのメロディはとても印象的で一度聴いたら忘れられない個性的なメロディが多いですが、どうやってメロディのアイディアは生まれているのでしょうか?

メロディに関しては、結構昔から変ってるって言われますね。俺はまったく意識していないんですけど。江戸川乱歩とか横溝正史とかのエログロ的なのが好きだったから、そういった世界観も反映されているのかな。
昔から、自分は世の中に馴染んでいる様だけど、馴染めていないって感じるんですよ。何処に行っても。その劣等感みたいなのを引きずっているのかもしれません。そういうのが根本にあって、それがそのまま音になって出てきているのかも。プリミティブな物がメロディになって出て来ているんだと思います。ビートの分部では破壊衝動が反映されていて、既存の物を壊したいっていう気持ちが昔は特に強すぎて。中二病とも言えるのかも(笑)。


Q.
長年に渡って音楽制作を続けられていますが、その原動力とは?

子供の頃から今もずっと初期衝動が続いていて、とても衝動的なんですよね。それと純粋にリズムと音が好きなんだと思う。

Q.
今後の展望は?

どういった形であれ作り続けるし、発信出来ればと思います。